数々の大ヒット曲を誇り、紅白歌合戦出場は実に46回という石川さゆりさん。
2023年、歌手生活50周年をむかえた石川さゆりさんは、名実ともに日本を代表する演歌歌手と言えるでしょう。
こんな石川さゆりさんがデビュー当時はアイドル歌手だったということ。
このことは、それほど知られていない事実かもしれません。
そこで今回は、石川さゆりさんのアイドル時代について調べてみました。
また、再び注目されている曲「能登半島」についても、お伝えしていきます。
石川さゆりが若い頃はアイドルだった?
小学1年生の時、島倉千代子さんの歌謡ショーを見て感動したという石川さゆりさん。
このことがきっかけで、次第に歌手を志すようになったといいます。
そして小学6年生の頃から、歌のレッスンを受け始めました。
当時の音楽教室で一緒だったのが、女優の高橋恵子さんでした。
高橋恵子さんは、当時の石川さゆりさんの印象を次のように語っています。
「天才的な歌唱力は私の記憶に深く刻み込まれました。」
その後、1972年、中学3年生の夏休みに、フジテレビ系の「ちびっ子歌謡大会」に友人に代わって出場し、合格。
そして、ホリプロにスカウトされたのです。
1973年3月25日、石川さゆりさんは「かくれんぼ」でアイドル歌手としてデビューを果たします。
同時期にホリプロからデビューした森昌子さん、山口百恵さんと共に「ホリプロ3人娘」として華々しく売り出されました。
ところが、この頃、森昌子さんと山口百恵さんは桜田淳子さんと一緒に「花の中三トリオ」として脚光を浴び始めました。
この3人は、日本テレビ系の人気オーディション番組「スター誕生!」の出身だったのです。
石川さゆりさんは「花の中三トリオ」の影に隠れ、一人取り残されてしまいました。
そして、漫才の青空球児さん・好児さん、藤正樹さんと一座を組んで、地方の旅回りをする日々を送ることになります。
ただ、地方でのショーの会場はいつもガラガラだったそう。
「昌子ちゃんや百恵ちゃんが次々にヒットをとばし、テレビで歌っている姿を、
巡業先の楽屋や旅館で見ていて、口惜しくなかったといえばウソになります。
でも、いつかは私にもチャンスがくる。
それまでにうんと力をたくわえておこう。
そう思いながら、どんなにお客さんが少ない会場でも一生懸命に歌いました」と当時の気持ちを明かしています。
結局、石川さゆりさんはアイドル路線では成功できませんでした。
このような不安を払拭するように、歌に没頭することを決めて二葉百合子さんの門をたたいたという石川さゆりさん。
歌うことを基礎から学びなおし、歌に深みを持たせるため、民謡や日舞にも打ち込みました。
その後、奇しくも「花の中三トリオ」が解散した1977年、歌手としての運命を決定づける曲がリリースされます。
それが、15枚目にあたる大ヒット曲「津軽海峡・冬景色」!
石川さゆりさんは、同年末の「日本レコード大賞」歌唱賞、「FNS歌謡祭」グランプリなど数々の音楽賞を受賞。
さらに「紅白歌合戦」にも念願の初出場を果たしました。
この1曲で、石川さゆりさんは押しも押されぬ演歌歌手となりました。
続けて「能登半島」「暖流」「沈丁花」などの曲がヒット。
しかし、1980年代前半には、大きなヒットに恵まれず苦戦した時期もありました。
1983年、ついには「紅白歌合戦」の選にもれてしまったのです。
その後、1985年の「波止場しぐれ」が久々のヒットとなりました。
この曲で「日本レコード大賞」の最優秀歌唱賞を受賞した時は、喜びもひとしおだったのではないでしょうか。
翌年の1980年、いよいよ「天城越え」が登場します。
「天城越え」は、石川さゆりさんの新境地を切り開いた名曲です。
石川さゆりさんにしか歌えないような難易度の高い作品として意図されたとか。
万感込めた石川さゆりさんの歌唱が素晴らしく、歴代のご当地ソングの大傑作となりました。
この曲によって、伊豆天城の地名が日本全国に広まり、歌詞に登場する「浄蓮の滝」の知名度も高まりました。
「天城越え」のインパクトは絶大で、演歌というジャンルを超えて、歌謡曲のスタンダードになったのです。
難しい曲であるにもかかわらず、比較的若い女性が好んで歌っているとか。
聴いているうちに自分でも歌いたくなってくる曲の典型だそうです。
石川さゆりと能登半島の関係は?
1977年、石川さゆりさんは「能登半島」という曲をリリースしました。
「能登半島」は、発売当時オリコン最高7位、累計売上げは42万枚以上という、れっきとしたヒット曲です。
ちなみに、「紅白歌合戦」でも2003年に1度歌われています。
実は今年の夏、この「能登半島」が再び注目されています。
音楽ストリーミングサービスのSpotifyで、再生回数が1年前より約2.4倍に増加しているのです。
この曲が注目されている背景には、元日に起きた能登半島地震の影響があることは間違いないでしょう。
「能登半島」を歌い、ご縁が生まれて、能登を訪れる機会が増えたという石川さゆりさん。
「輪島塗の職人さんや、民宿の方など、地元の方たちと出会って、長いおつきあいをしてきました」と語っています。
そんなかかわりをしてきたからこそ、震災は決して「他人事」ではなかったそうです。
「知り合いの方々に連絡がつくまで1週間ほどかかり、とても心配しました。
現地の様子はニュースでしか知ることができず、どのくらいの被害になっているのか想像するばかり。
昨年末、能登でディナーショーを開いたばかりでしたので、なおさらにショックでした。」
そして桜の花の咲く頃、能登を訪れた石川さゆりさん。
現地で色々話を聞き、「必ず歌を届けに来る」と約束したそうです。
7月、約束通り現地を訪れ、無料コンサートを開催。
ここで歌ったのが「能登半島」でした。
このコンサートで、実に500人以上の人たちと大合唱になったという「能登半島」。
石川さゆりさんは、「現実の皆さんは、大変な日々を送っていらっしゃるのに」と涙が止まらなかったそうです。
さらに、8月29日にも無料のミニライブを開催しています。
誰もが、日々の暮らしの中で忙殺されることで、能登の災害の記憶がどうしても薄れてしまいがち。
そんな時に、石川さゆりさんが「能登半島」を歌っていくことで、能登のことを思うきっかけになって欲しい。
石川さゆりさんは、このように願っています。
石川さゆりの2024年の紅白の楽曲は!
2007年から「紅白歌合戦」で、「津軽海峡・冬景色」と「天城越え」を交互に歌っているという石川さゆりさん。
この記録はいつまで伸びるのかと思われていました。
実は、NHKから「この2曲が日本の年越しなんですよ」と言われて、石川さゆりさんは複雑な気分になっていたそうです。
しかし今年は、この2曲の「無限ループ」を脱出するのではと言われています。
というのも、能登の被災地に向けて「能登半島」を熱唱、多くの感動を呼んだからです。
実際、SNSには「今年の紅白の石川さゆりは、『能登半島』になること決まりだな」という声が上がっているのです。
2025年元日は、能登半島地震から1年の節目になるだけに「能登半島」を歌う可能性はありそうですね。
まとめ:石川さゆりが若い頃はアイドル?能登半島とはどんな関係!
今や日本を代表する演歌歌手として活躍し続ける石川さゆりさん。
数々の代表曲があり、紫綬褒章などの栄誉も受けています。
一方、被災した能登半島に思いを寄せ、無料コンサートや復興チャリティーコンサートを続けています。
これからも現役で歌い続ける石川さゆりさんには、さらなる活躍を期待したいですね。